日本の水生植物 湿地環境論
ふじみ湖問題Revival
(C)半夏堂
ふじみ湖問題Revival

(P)2002年のふじみ湖

*この画像はふじみ湖画像ダウンロードサイトより同サイトの「個人での使用は、閲覧は自由とし転載は自己責任」という
約款に基づいて自己責任下で転載しています。掲載に問題があればTOPページメールアドレスよりご連絡ください。

Chapter1 序文と背景整理

序文

 環境保全や自然保護には様々な考え方があって、単純に善悪利害正邪、対立の図式の中では客観的な判断が困難だ。なぜなら人間が判断を下さなければならない以上、そこには「立場」という前提が存在し、明らかに法的倫理的に逸脱がなければ、正誤ははともかくとして立場を優先した判断を下すからである。文章が冒頭からこんがらがっているが、「どちらも正しい」「どちらも間違っている」と単純に書けない根深さがそこにあるからだ。

 社会インフラを開発する時、第一に起きる議論とその帰結に関し、ふじみ湖の経緯は典型的なプロトタイプになっていると思われる。自分自身のより身近な問題にも、市内の住宅地に近い場所への火葬場建設という問題があり、推進派と反対派で激しく争った事例がある。しかし反対派は火葬場の必要性に付いてまで反対はしていない。一方、推進派は必要性を訴えており、要するに議論が噛み合っていない。こうした現象はこの手の問題でしばしば見られる。

 一つの話題で検証してみよう。
 日本最深の湖、田沢湖はかつて透明度が高く水産資源も豊富な内水面であったが、発電の用水確保や玉川河水統制計画(農業用水確保)のために、戦前に玉川(pH1.1)から導水を開始、結果として湖水もpH5以下の酸性湖となってしまった。ニュースで西湖での再発見が話題となったクニマス(サケ科)は導水以前に田沢湖にのみ生息した固有種だったが、水質の変化により絶滅している。
 ちなみにこのWebサイトをご覧になっている方々の一定比率を占めると思われる、アクアリウムを趣味とする方であればこの事業の危険性はすぐに理解できるはず。観賞魚や水草は意外なことにごく狭いpHの範囲で生息しており、しかもpHの急変は致命的な結果を招くことをご存知のはず。pH、水質は水域の大小には関係がなく、その場所の生態系に影響する。大きな水域であれば生態系の大規模な破壊に繋がるのだ。
 導水開始後にはあまりの酸性水質に水力発電所の施設が劣化したり、農業用水にしても稲作に適さなくなってしまったりと「落ち」が付くが、これも本質的には同じ話である。賛成と反対の立場があったと思うが、反対派も電気や米の必要性にまで反対はしなかったはず。それは自分自身の存在に反対するのと同じことになってしまう。
 田沢湖ではクニマスの再発見を受けて湖に戻すべく中和作業を行っているがpHは5.6程度にまでしか戻らず、道はまだ遠いようだ。pH5.6というと、火山性の湖沼群である福島県の五色沼とほぼ同水準。植物ではフトヒルムシロなど酸性水質を好む一部の種しか存続できない。

 田沢湖の導水は水力発電や農業用水確保が成功していたとしても半世紀以上の時間が経過した現在、客観的に失敗という評価ができると思うが、目的や時代、地理、結末は違うが、プロトタイプとしては同じであるふじみ湖はどうなのだろうか。評価は今出来るかも知れないし、半世紀待たなければならないのかも知れない。また評価自体も立場や考え方によって変わるのかも知れない。しかしこの問題は忘れてよい問題ではなく、とりあえず現時点の個人的な考え方として本稿を起こした。



ふじみ湖の消滅

 かつて茨城県笠間市に存在した美しい湖、ふじみ湖が消滅してすでに10年以上経過し、利害関係にあった多くの方々の記憶からもアウトラインがぼやけるか、痛みが忘れ去られていると思う。その後この地域で発生した天変地異、東日本大震災では本県でも津波や原発事故の影響など広範な被害を被り、また2015年には集中豪雨による鬼怒川の決壊による水害が発生するなど直近の大災害が過去の環境問題の記憶を押しやってしまったことは否定できないからだ。
 ふじみ湖問題に関連する市民団体のホームページも判決確定後は更新が止まっており(決着して湖が消滅した後に更新する謂れもない)、この問題が風化しつつあることを実感している。2007年にこの問題に関し「消えたふじみ湖」というタイトルの記事を公開したが、それからさらに10年が経過、今現在感じる思いも含め再公開を行うのも意義あることと考え、「ふじみ湖問題Revival」としてリライトを行った。

 「意義」というのは、この問題を考えるとき、こうしたポジションの地形が自然か人工物かの線引きが明瞭ではなく、一方司法によって一旦線引きされてしまえば終わり、という流れがいつどこで発生しても不思議はなく、その際にケーススタディとなるからである。もちろん裁判ではそれだけの基準ではなく多面的な観点の論議が成されているが、最終的な判断基準の大きな部分を占めていたことは間違いない。
 天然記念物なのでまず工事による消滅のおそれはないが、かの成東・東金食虫植物群落も地域の入会地跡に自然成立した湿地であり、性格的には人工物である。また多様な生物の宝庫、渡良瀬遊水地も人工物である。こうした例を考えると、成立した自然が人工物であるか否か、という議論や判断基準は本質を外れている。二次的自然として認知されている里山も人工物なのである。人間による構築なので人間が再構築という名の破壊を行って良い、というザックリした考え方は間違っていると思う。それは上記2湿地がそれぞれ天然記念物、ラムサール条約登録湿地になっていることで証明されているはず。ふじみ湖問題を振り返る時、特に被告側(県、事業者)の主張にこの意識が見え隠れする。


 百聞は一見に如かず、というが残念なことに私は「ふじみ湖」を見たことがない。今後も見ることがないのは確実で、なぜなら現在は存在しないからである。「存在しない」というのは、かのロプノールのように彷徨って所在不明になってしまったわけではなく、本稿で述べるように埋め立てられて廃棄物の処分場になってしまったからだ。
 これだけ聞くと冷酷無情な自然破壊という印象を受けるが、今あらためて当時の経緯を振り返ると、阻止のために立ち上がった地域住民、何が何でも建設しようとする県、双方とも客観的に正当な主張ではなく争点がボケているような印象を受ける。偉そうに言っているが、これは10年以上の時間が経過し、当時の資料をじっくり検討する余裕があるからこそ。自分が渦中にいれば同じか、それ以下の行動しかできなかったはず。結果的に「冷酷無情な自然破壊」のみが事実として残ることは変わらなかったと思う。

 後半に述べようと思うが、人間の活動は少なからず自然にマイナス方向の影響を与えていることは間違いなく、開発に無条件に反対することは自らの存在を否定することと変わらない。原発反対をさけぶ政党や市民団体も家に帰れば電気があるのが当然の生活をおくっている人間の集合体のはず。原発を次々と停止した結果、火力発電増加とそれに伴う原油輸入による貿易赤字の拡大、二酸化炭素削減目標未達などのトレードオフが存在する事実には一切触れない。また再生可能エネルギーへの切り替えを主張する方々は原発の発電量と対比し、需要を賄うだけの発電量を確保できない事実には一切触れない。それでも電気代値上げには反対なわけだ。
 自分自身、社会に出てからずっと「対案なき批判はゴミ意見」と教えを受け、会議で議論を行う際にはその意識を持って臨んでいたが、どうも私の常識と世間の常識には乖離があるようだ。爺の繰り言になるが、血で血を洗う企業活動と声の大きさ勝負で生きている方々の間には永久に埋まらない溝が存在するようだ。「埋まらない溝」なのでそれこそ批判しても始まらない。

 しかしこれだけは言える。貿易赤字の拡大は経済成長に大きな影響を与え、排出二酸化炭素削減目標の未達は地球温暖化につながる。どちらも原発事故による放射能問題と同程度に重要、かつ国際的に合意した内容(二酸化炭素問題、COP)も含まれる問題のはずだが、知らないのか知らないふりをしているのか、廃止を主張する方々はかなり一方的な主張を行っている。対案がお粗末なだけに余計にそう思う。別に東電や政府の味方ではないが、客観的に見てフェアな議論とは言い難い。

 自分自身を含めての話だが、全体を俯瞰しないなかでの主張は綺麗ごとだ。もっと厳しく言えばゴミ意見。そもそも国や事業体は原発は安全と長年主張しつつ、なぜか施設は東海村(茨城県)に集中、発電は東京電力なのに東北(福島)、信越(柏崎)などにある。本当に安全なら千代田区でも新宿区でも原発を設置して然るべきだろう。首都圏に電力供給するのなら遠隔地から送電するよりコストが安く付く。結局安全性が真っ赤な嘘だったことは福島の事故で証明されている。
 なぜこんな事を書いているのかというと、ふじみ湖の問題が上記したような「雰囲気」に支配され、条件や影響をすべて並べた上での議論ではなかったからだ。裁判なので自分の不利な条件は隠し、時には事実を歪め、というスタンスが見え隠れするのは仕方がない。しょせん勝負ごとだ。しかし私ごとき素人が後から資料を見て気が付いてしまうというのはいかにも稚拙。そんなレベルの議論の結果がこれでは救われない。今後も同じような問題がどこかで発生し、同じような経緯、結末をたどるのであれば人間の叡智って何だろう、そんな思いでリライトを行った。

Chapter2 おさらい

自然物と人工物

 画像サイトより転載した上画像を見ると、ふじみ湖はカルデラ湖(*1)のように見える。しかし見かけは同じでもふじみ湖は共同採石場の跡に湧水によって成立した半ば人工的な湖である。人工的と言ってもダム湖のように目的と意思をもって造られたものではなく、あくまで偶然の産物である点、さらには希少種のトンボをはじめとする独自の生態系が成立している点をもって自然の湖沼として扱う根拠は十分にあったように思われる。
 一部で「関東の摩周湖」とも称されたほど美しい景観もその重要な一部だが、実は「景観」が財産権を抑制する事例もある。京都では建築物の高さ制限によって古都の景観を守っており、場合によっては自分の土地でも手出しできないケースもある。これだけ社会が成熟し、景観の価値も認められている現代、地域住民の居住環境を担保するという考え方も「あり」ではなかったのか。

 ふじみ湖は写真で見る限り、特に稲荷神社と笠間焼程度しか観光資源のない笠間市(よく知らないので他にあったら失礼)にとっては有効な観光資源になる可能性があったようにも思われる。少なくても現存すれば私は何度か行ったと思うし、県内の景観地として知られる竜神大吊橋や袋田の滝などで感じられる「割高感と肩すかし感」のない、フォトジェニックな場所になった可能性が高い。湧水起源の低水温を活かし、イワナやヤマメの釣り場にしても栃木や群馬の山間部にまで遠征せざるをえない近隣アングラー諸氏にはありがたい話。このように将来的に文化的な活用の可能性が大きかったこの湖が水抜きされ産廃場になるまでの経緯は以下の通りである。


(1)〜1985,6年 村有林(合併前)が払い下げとなり採石場として利用された
(2)1986年ごろ 湧水が激しくなり採石場としては放棄されたが、跡地に深さ39m、周囲1kmのふじみ湖が成立
(3)1986年〜2002年ごろ 湧水起源の透明度の高い湖として成立し、トンボ他、希少な生物の自生地となり、関東の摩周湖とも称されるようになった
(4)2002年10月1日 「エコフロンティアかさま」(産業廃棄物処分場)の工事着工、埋立開始。事業者は財団法人茨城県環境保全事業団
(5)2002年11月1日 工事差し止めの仮処分申請
(6)2004年6月21日 工事差し止めの仮処分申請却下


 湖を消滅させた要因である「エコフロンティア笠間」は茨城県の外郭である財団法人茨城県環境保全事業団が運営する産廃場である。論点(争点)は2つあって、(1)美しい自然を残すべき(2)産廃場の汚水の地下水浸透による環境への影響を懸念、というものである。2つの争点を混同すると「貴重な自然を守れ」という単細胞生物の議論になってしまうのでここでは分けて考えてみたい。
 美しい自然、つまり景観を守るという争点に関しては県、事業者側は自然物ではないという立場をとっている。汚水の地下水浸透に対しては十分に対策すると主張しており、この点は現在も上記リンクWebサイトで対策状況を公開している。前者の主張は後述するように我田引水の強引な持って行き方だが、裁判という場では答弁書によって済むレベルの話になってしまっている。経緯を考えれば判決はある意味予想された結末ではないか、と思う。この部分は今だから言える事ではなく、当時でも十分予想できたことだと思う。
 自然保護、というのは多分に観念的で被告側が主張したように「自然ではない」と言えば前述のように「自然か人工物か」という次元の話になりがち。また汚水の地下水浸透は単純な技術的問題である。(とは言え豊洲ではこれが大問題になったが)浸透しないように対策すると言えばそれを否定する根拠はない。非常に単純化しやすい争点になってしまっている点、今考えても残念だ。

Chapter3 全般的にわりと雑

県民性?

 自分が生まれ育ち、東京都民だった15年ほどを除いて現在も居住する茨城県ながら、客観的に県民性を考えると「わりと雑」である。特に自然との関わりを見ると、隣県である千葉県や埼玉県と相当の距離を感じる。県内には霞ケ浦・北浦をはじめ涸沼、牛久沼、久慈川、那珂川、利根川、多くの内水面(*2)が存在するが一部を除いてもれなく汚れている。(COD、BODの数値から)
 一方、根治的対策は進んでおらず、特に湖沼の汚染原因とされる面源負荷(*3)に対しては無策そのもの。ついには「比較的綺麗な那珂川の水を霞ケ浦に注ぐ」という壮大な愚挙が現実化する始末。霞ケ浦導水路は建設省や環境省が進めていることなので県が避難される部分は少ないが、県税も投入しているので少なからず責任はあるはず。アサザ基金の言い分ではないが、汚染原因は流域の生活排水や農業排水、それを流さない常陸川水門である。それ以外にないのは明らかだ。だって「汚れた水をバケツに注いでそれを流さない、そのバケツの水は綺麗ですか?」といういたってシンプルな話なのだ。少なくても学術的にデータを並べて議論すべきテーマではなく、素人でも分かる話だ。

 少し脱線するが、霞ケ浦導水路のモデルとなったのが北千葉導水路であることは間違いない。北千葉導水路は成功事例とみなされているが、手賀沼のCOD(*4)が多少改善した以外に何も見えない。そりゃ行政や関連団体にしてみれば「日本一汚い湖」からの脱却は大成功だろうが、地道に活動する市民団体の目標であるガシャモクもマシジミも(*5)帰ってきていない。自分が環境学よりも生態学寄りの嗜好なのでそう思うだけかも知れないが、少なくても目に見える変化はCODの数値だけである。それだけのために数千億?という疑問は当然起きるはず、でもご安心を。事業主体は「用水確保」やら「洪水防止」やら後で証明しにくい「目的」を並べている。

 自然環境に対するザックリした考え方は、逆説的ながら茨城県が元々は産業と言えば農業、自然豊かな郷土、という部分だと思う。自然の復元力が大きかったためだと考えるのである。復元力が大きいので多少痛めつけても変化が感じられない時代が長く続き、自然の繊細な部分を忘れてしまったのだ。例え話になるが、車を運転する際にOPECの生産量や埋蔵量を気にしながらする人間がいないのと同じ。生産量を絞れば価格は高騰するし埋蔵量が無くなれば石油(ガソリン)がなくなる事は誰でも知っている。しかしそうなるのははるか先のこと、という認識だ。自然破壊が「はるか先」ではなくすでに来てしまっただけの話だ。この「雑な感覚」はふじみ湖の裁判の経緯にも濃厚に感じられる。

 まず原告の方には申し訳ないが、意見陳述書からして雑である。原告の一人、塙精一氏が提出された意見陳述書は現在もネット上で全文の閲覧が可能である。(→こちら)内容を読むと前項で指摘した「混同」そのものになっている。結果として地域住民が美しい自然や文化を維持して欲しい、という法的には雑なお願い以上の印象を受けない。もちろん言い分も気持ちも十分以上に理解できるが、裁判所は司法の枠組みの中で判断する機関である。意見陳述書中「ふじみ湖の水の放出による井戸水の水位低下にも因果関係はないとうそぶき、貴重な動植物を守るため湿地保全を約束したことも忘れたような工事」をしているのであれば、その物証を持って債務不履行に焦点を絞る内容にして然るべきと思う。弁護士よりもペテン士に近い私が考えてもそう思う。
 裁判経緯もネット上に残存(→こちらしており経緯が見えるが論点が前項(1)に行ったり(2)に行ったり、焦点がブレてしまっている。一方被告側の県、財団法人茨城県環境保全事業団は産廃場という必要性、公益性の高い施設の建設、用地の権利といった要件を満たしており、負ける要素が(法的に)ない。これでは勝てない。

 よりによって「美しい湖」を潰して産廃場にするという発想も雑だが、産廃場がないために行政サービスが低下したり他自治体に多額の費用を支払って処分を委託する市町村も多いご時世、仕方がない面もある。(個人的にはけっして県の味方ではない)ふじみ湖問題はマスコミでも取り上げられ、わりと全国ネタになり国政の場でも質疑が行われている。2002年11月8日の衆議院環境委員会で民主党の奥田建氏(当時)が、ふじみ湖の問題中特に「住民との合意」について質問を行い鈴木俊一環境大臣(当時)が答弁している。答弁内容は

「ふじみ湖処分場は、廃棄物処理法に従った手続きを行った結果許可したと県から報告を受けている(大意)」

というもの。ちなみに廃棄物処理法(廃棄物の処理及び清掃に関する法律)では処分場の建設については市町村、地域住民の意見により県知事が認可することになっている。(第十五条及び第十五条の二)条文には、「その産業廃棄物処理施設の設置に関する計画及び維持管理に関する計画が当該産業廃棄物処理施設に係る周辺地域の生活環境の保全及び環境省令で定める周辺の施設について適正な配慮がなされたものであること」とある。
 日本語の曖昧さが遺憾なく発揮されている文章だが、あくまで「地域住民の意見により県知事が認可」であって「地域住民の賛成意見により県知事が認可」ではない。地域住民300人以上の原告団が「No」と言っている現実は「地域住民の意見により県知事が認可」の範疇である。当該地域(ゴミの収集範囲)の受益者の「Yes」は軽く300を上回るはず。いささか強引な持って行き方だが、こういう解釈も成り立つ。事実環境省は続く答弁において

「環境省として住民合意が必要と承知している(大意)」

と答えており、その根拠はこうした内容だろう。Noが300でもYesが1000なら「住民合意」となる。それが民主主義というもの。しかし考えてみればこれもある意味雑な答弁である。Noの300はふじみ湖に隣接し、産廃場建設による被害を懸念する母数、Yesの1000は比較的ふじみ湖から距離があり、利益を得る母数と考えられるからだ。「住民合意」がふじみ湖から半径何km以内、と限定したわけではない。

Chapter4 詭弁炸裂

被害者と受益者

 被告側に突っ込み所があるとすればまさにここである。同じ地域住民でも被害者と受益者に分けて追及すれば「住民合意」が成立していない現実を突きつける事が出来たはず。またもう一点、被告側には致命的な瑕疵がある。前述のように被告側はふじみ湖を湖として認めず、「水溜り」とし、湧き水も否定しているのだ。かなり強引な、言わば「嘘っぱち」なわけだがこれには訳がある。湖として認めれば環境基本法(*6)によって原告側に保全の法的権源が発生してしまう可能性が発生するのである。つまり仮処分申請が通ってしまうおそれがある。
 ふじみ湖が水溜りではなく湖沼であることは環境省の定義により明らかである。「水溜り」と主張する被告側もそれは承知の上だろうが、認めるわけにはいかない辛さ。かくして詭弁炸裂である。

 ここで判決を出す側の心情と論理を推測すると、裁判所側も現地調査を行っているし「美しい湖」であることは十分理解したはず。一方民事訴訟が真実を証明することが目的ではないという原則がある以上、ふじみ湖が湖であろうがなかろうが、被告側が説明会で嘘をつこうが関係なく、自然保護か公益性の高い開発か、法的権原が原告側にあるか被告側にあるか、という別次元の判断を迫られた事は想像できる。そして心情とは別にあくまで法的判断を下すという公平な態度を貫いた姿勢は立派だ。これぞ民事裁判。

 しかしよりグローバルな観点からこの問題を考えた場合、判決結果は司法や行政を飛び越えて国際条約の精神が踏みにじられたのではないか、と感じられる。国際条約とはラムサール条約(*7)である。ラムサール条約には「登録湿地」というものがあり、釧路湿原や渡良瀬遊水地、谷津干潟などが良く知られている。しかし同条約は保全対象を条約湿地に限定したものではないと明記されており、また渡良瀬遊水地が登録湿地になっているのを見ても分かる通り、人工か天然かも区別していない。さらに言えばふじみ湖が今回の裁判で被告側が主張した「水溜り」であったとしても、条約には「永続的なものであるか一時的なものであるかを問わず」とあり、賢明な利用(ワイズユース)を図らなければならない地形であるという事実は動かない。

 グローバルな視点(国際条約)とドメスティックな視点(国内法)、どちらが優先されるべきか確たる判断は難しいが、憲法98条には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とあり、また日本も批准する「条約法に関するウィーン条約」には「当事国は、国内法を、条約の義務を行わない理由としてはならない」とある。つまり今回の判決はこれらの精神に反していると考えざるを得ない。
 国内法と国際条約、どちらを優先すべきか様々な見解もあり、また自分は専門家でもないので判断できないが、諸事情によって遵守できない条約なら最初から批准しなければよいのに、と率直に思う。また国際条約は締結内容の変更が容易にできない以上、批准国として条約の精神にあった国内法の改正を行わなければ今回のような出来事が起きることは素人にも分かる。


 我が家のゴミはエコフロンティア笠間には搬入されていない。第三者が勝手な言い分を述べているだけだが、当事者として家庭のゴミが処分されない事態となれば話は変わってくる。(そういう二択の状況にはならないと思うが)その際には強く行政サービスを求めるはずだが、その行政がサービスのために建設する処分場には反対する・・相当な矛盾だ。それは分かっている。火葬場がないと困るのは理解しつつ自宅周辺はイヤ、というのと同じ話。こういうご都合主義のメンタリティがいかんのかも知れない。自己の利益が係ると意見が変わって来る自分自身の身勝手さを認識しつつも、あえて言わせてもらえば本件は論点整理ができないまま拙速にに結論を出した印象があり、結果的に犠牲となったのは美しい景観と、そこに住む生態系であることは間違いない。

脚注

(*1) 火山の噴火活動によって形成された火口や陥没地形に水が溜まった湖。摩周湖(北海道)、蔵王の御釜(宮城県)などが有名。火山性物質の影響によって非調和型湖沼となっているものもあり、見た目は綺麗だが蔵王御釜などpH3.5の酸性で生物が一切生息していないものもある。ちなみに「カルデラ」はスペイン語でそのものズバリ「釜」の意味。

(*2) ざっくり分けると海水域は外水面、淡水域の河川湖沼は内水面。漁場管理の観点からの分け方である。漁場管理なので複雑な面があり、正確には霞ケ浦は(琵琶湖も)海面漁業の扱いとなる。また本文中の涸沼は海水でも淡水でもなく汽水湖であるが、海面と連続した構造である浜名湖や宍道湖とともに内水面漁業の扱いとなる。

(*3) ノンポイント汚濁源。田畑、山林、市街地等の面的な汚濁源から発生する汚濁負荷である。通常は地下浸透や農業排水によって排出されるが、雨天時には表層流出によって広範な範囲から汚染物質が河川湖沼に流入する。霞ケ浦や北浦の沿岸には大規模な工業地帯はなく、人口密度も低いので汚染源は面源負荷である。対策は住宅や農業からの排水処理施設、流入河川の浄化などが考えられる。

(*4) 手賀沼は法律上「河川」なので本来は水質指標はBOD(生物化学的酸素要求量)を用いるべきかと思うが、法律上の区分と慣習的に沼(止水)と扱っている立場には関連はないようだ。どちらにしても指標なので相対的なポジションは表現できる。

(*5) 手賀沼周辺で活動する「手賀沼にマシジミとガシャモクを復活させる会」(柏市)は地道な活動を続けている市民団体。まさにマシジミとガシャモクが手賀沼に定着すれば環境改善が実感できる。現在の手賀沼はCODが改善したとはいえ、透明度のない水、植栽されたハスや外来種ナガエツルノゲイトウの繁茂など環境改善には程遠い。

(*6) 「この法律は、環境の保全について、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体、事業者及び国民の責務を明らかにするとともに、環境の保全に関する施策の基本となる事項を定めることにより、環境の保全に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする」同法第一条目的。
 具体的手続は環境省に設置されている中央環境審議会が行う。住民側(原告側)が環境省に陳情し、少なくても検討対象となれば仮処分申請が認められた可能性は高いと思う。

(*7) 正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(The Convention on Wetlands of International Importance especially as Waterfowl Habitat)」。1971年制定、1975年発効。条約が作成されたイランのラムサールにちなむ通称としてラムサール条約と呼ばれている。


ふじみ湖問題Revival
(C)半夏堂
日本の水生植物 湿地環境論
inserted by FC2 system