日本の水生植物 | 水草雑記帳 Field Note |
再編集版 ヒシの分類小考察 |
(C)半夏堂 |
Field Note ヒシの分類小考察 |
ヒシ Trapa japonica Flerov 2015年8月 水面を被覆する繁殖力の強さ 東京都葛飾区水元公園小合溜 |
Chapter1 科名植物交雑種由来説 |
ヒシは歴史的にも日本人に馴染み深い植物だ。ヒシの実を常食していたアイヌ民族はぺカンペ(水の上にあるもの、という意)と呼び重要な食料と考えていたし、実際に使用したかどうかは別として、忍者のマキビシはヒシの実である。またヒシの葉を家紋とした家も多い。三菱のロゴマークも元々は創始者の岩崎家(弥太郎)の家紋と領主の山内家の家紋を組み合わせたものだそうだが、岩崎家の家紋はヒシの葉をデザインしたものである。このロゴは現在でも鉛筆から自動車まで三菱グループの製品に使用されている。 家紋でもう一つ、戦国武将、甲斐武田氏の武田菱もヒシの浮葉からデザインされたものだ。あっという間に水面を占拠してしまう生命力の強さにあやかったものかも知れない。 どこにでもある普遍的な浮葉植物のヒシに興味を惹かれたのは、科名植物である(狭義の)ヒシが交雑種(*1)であるという説を見つけたからだ。このような例は他にもあって、タヌキモ科の科名植物タヌキモは2005年にゲノム解析他(交配実験と葉緑体DNA分析、AFLP分析)によってイヌタヌキモとオオタヌキモのF1雑種であることが確認されている。母種はイヌタヌキモ、父種はオオタヌキモである。 しかし、今や自生地が限られるタヌキモとは異なり、かなり水質汚染が進んだ霞ケ浦近辺でも普遍的に見られる大勢力水生植物のヒシが交雑種というのは驚きだ。一般に雑種優勢(*2)とは言うが、必ずしも当てはまらない場合があるのはタヌキモよりイヌタヌキモの分布が広いことを見ても分かる。また、利根川水系付近ではササバモが残存するが、かつて繁茂していたインバモ(ササバモ×ガシャモク)は見られない。 自分は文科系素人ながら交雑種が生まれた際に染色体の数が倍体になることは知っている。オニビシやヒメビシが2n=48の染色体基本数であるのに対し、ヒシは2n=96である。これが偶然かどうか分からないが、ヒシが交雑種である可能性は強いと思う。脚注(1)の論文でも「可能性が示唆された」という表現であって、もちろん断言はできない。ヒシ科(APGV:ミソハギ科 Lythraceae ヒシ属 Trapa)の植物には他にも2n=96という大きな染色体セットを持ったものがあり、コオニビシ、イボビシ(推定、後述)がある。わずか5種(ないし6種)のヒシ科植物のうち半数は交雑種の可能性がある、という事で、これは他科の植物には見られない特徴だ。 (P)2011年5月 一斉に芽吹くヒシ 千葉県印西市長門川 |
Chapter2 ヒシとイボビシ |
ヒシ科の科名植物、ヒシ(Trapa japonica Flerov)は、種子の形状に変異が多い植物とされており(このあたりの特徴も交雑種を示唆しているように思われる)、そのうち擬角が発達するものをイボビシ(Trapa bispinosa Roxb. var. makinoi Nakano)と呼ぶという「説」がある。あくまで「呼ぶ」ので、イボビシはヒシの種内変異(*3)であるとする説だ。 また、学名標記上ヒシとイボビシを完全な別種とする立場もある。(Trapa japonicaとTrapa bispinosaはシノニムと考えられるので別な話)種子の形状が世代交代後も引き継がれるので種として独立していると考えられて別の種小名が付与されているのだろう。どちらも妥当で納得する説だ。 問題の果実の形状は、オニビシやコオニビシの棘の位置に太く、丸みを帯びた隆起が(擬角)が発達する。後半に解説するオニビシやコオニビシの鋭角な棘とは明らかに形状が異なっている。しかもこの形状は群落で安定する。つまりイボビシの群落は似たような形状の種子しか見られない。和名はこの擬角を「イボ」に見立てたものだ。種内変異説、別種説諸々あるが、学者ならぬ暇人の身、自力でゲノム解析をするわけにも行かず、個人としては論理的類推により別種説を支持したい。理由は以下2点である。 (1)形状の安定 変異であっても形状が安定すれば独立した種である。イボビシを産する池は数年間の観察の結果、イボビシと呼ばれる果実形状以外観察できない。例えば例年葉茎に毛を纏うミソハギはエゾミソハギではないのか? (2)分布の問題 本水系の調査範囲ではイボビシは独立して分布する傾向が強い。ヒシの種内変異とした場合、ヒシ群落の中や近接して分布する場合があっても良さそうだが、そうした例は私の調査では見つかっていない。 イボビシをヒシの種内変異とする根拠には、ヒシの果実にも僅かに擬角が見られることを証拠とする場合が多いが、大胆に推測すればイボビシはヒシの原型なのではないか、と思う。ヒシはご存知の通り2刺である。果実が充実し、水底に沈んで障害物に引っ掛かる生活史を考えれば2刺よりも4刺の方が有利であることは自明。何らかの理由により4刺であったものが退化し2刺となる途中(イボビシ)、退化が進んだ結果(ヒシ)と見ることもできるだろう。 本Webサイトで有力な情報ソースとさせて頂いている日本水草図鑑ではイボビシに付いて(同書P128参照、以下「」内引用)「ヒシは、このような変異を含めた多型(*4)を示す種として扱うのが適当であろう」とある。もちろん納得できる説ではあるが、そうすると上記ミソハギとエゾミソハギやコギシギシとエゾノギシギシなどの微小な相違をどこまで「種」と捉えるのか、そしてその基準は何か、という問題が解決されなければならない、と思う。イボビシがヒシの表現型だとしても種として分離するかどうかの判断は別。「ヒシの変異を含めた多型」と「イボビシを独立種として扱う」立場は矛盾しない。 *イボビシの形状に付いては「朝日百科 植物の世界」の記述を参考に判断を行った。 (P)形状のまちまちなヒシの果実標本(茨城県竜ケ崎市産)「イボ」はいろいろ・・
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Chapter3 オニビシとメビシ、コオニビシ |
一方、在来種として一際存在感を放つオニビシ(Trapa natans L. var. rubeola Maxim. f. viridis Sugimotro )であるが、関東地方では分布に濃淡があり、現在のところ印旛沼で大発生している以外は大規模な自生地は見つからない。印旛沼のものは人為的に持ち込まれた可能性が排除できないが、不思議なことに周辺の流入、流出河川や付近の小湖沼で見られるものは圧倒的にヒシ(狭義)が多い。 他地域の小規模な河川や湖沼に自生するオニビシも周辺地域のヒシやコオニビシのなかにスポット的に孤立している印象が強い。 メビシ(Trapa natans var. rubeola Makino)に付いては草体、花、果実ともオニビシとの差異は見出せない。オニビシの草体、特に葉裏が赤褐色に色付くものを特にメビシと呼ぶ場合がある、という程度の話らしい。日本水草図鑑の解説よれば(以下下線部同書より引用) 「葉柄や葉の裏面が赤く色づくものが、メビシvar. rubeola Makinoとして区別されることもあるが、このような着色は多かれ少なかれさまざまなオニビシ集団で見られるものであり、分類群を特徴づけるものではない」 とされており、最も納得できる見解であると思う。オニビシに限らず植物の草体や花色は生育環境の物質に左右される面があり、それらも変異に含めると収拾が付かなくなると考えられるからである。オニビシとメビシの場合、調査の範囲では混生しており、また年度によってどちらかだけが見られる、という現象も確認している。こうした根拠で当Webサイトの水生植物図譜ではメビシを「参考種」として扱っている。 果実の形態的に明らかな差異が認められるコオニビシ(Trapa natans var.pumila)は、もちろんオニビシとは別種であるが、ヒシ同様にオニビシとヒメビシの交雑種の可能性が示唆されている。これはコオニビシが2n=ca.96であることに根拠を持つ。同じ親同士でヒシとコオニビシという形状に差がある交雑種が発生するのも不思議だが、どちらが母種となるかで結果は変わってくるので納得できなくもない。 ヒルムシロ科のインバモ(ササバモ×ガシャモク)は、あまりにも葉の形状が違うものが2種類(*5)あるが、この例もササバモが母かガシャモクが母かの違いによるものと考えられる。再交雑かと思ったがインバモは減数分裂せず不稔である。ヒシもコオニビシも2n=96であれば減数分裂し世代交代が可能なので種として固定されているように見える。 コオニビシは水生植物図譜の解説にも書いたが、関東地方ではオニビシやヒメビシの産地とはリンクしない。もっともヒメビシは激減しているので比較対象にはならないだろう。しかしオニビシに関してはコオニビシだけが生き残りオニビシが絶える事態というものが想像できない。交雑種とすれば母種との分布がリンクしない点は疑問として残る。 (P)大きなオニビシの果実
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Chapter4 減少甚だしいヒメビシ |
ヒメビシ(Trapa incisa Sieb.et Zucc.)を見たいと考えた際に、近場である茨城、千葉、栃木、群馬、埼玉の自生記録を片っ端から調べ、現地に飛んだがすべて空振りを喰らっている。本当に自生があった場所もあるだろうが、ほとんどはコオニビシ、まれにオニビシという誤認しようもない「誤認」情報もあった。コオニビシはヒメビシに比べて果実が大きい。見れば私程度の素人でも見間違いようがないが、それは有名Webサイトの影響力(*6)もあるのだろう。これはこれで仕方がない。 ヒメビシはヒシ科のなかで唯一絶滅危惧種(レッドデータ2012 絶滅危惧II類(VU))となっており、事実上記のように関東地方近辺では自生を見られる場所が極端に減少してしまっている。生活環や見かけなど他種と大差がないようにも思われるが、ヒメビシには「種」として何らかの弱い部分があるのだろう。 八方塞がりとなり、維持されている神奈川県立フラワーセンター大船植物園まで行って見てきたが、フィールド調査の方はレッドリストの評価が妥当であると思わざるを得ない結果となった。 *本記事をご覧になった兵庫県のマツモムシ様より果実標本のご提供があり、以下画像を掲載します。マツモムシ様には厚く御礼申し上げます。 ヒメビシに付いては種として確定しており疑義が示唆された状況もない。しかし次々と群落が消滅している状況を見れば、同属他種と異なり種の存続の条件がタイトである点が特徴と言えば特徴であろう。もう一点、本種の特徴を解説したテキストによく出てくる「草体も果実も小さい」という表現は相応しくない。ヒメビシを探す過程で草体が小さなヒシはいくらでも見つかったが、果実を確認してみるとすべてヒシかコオニビシであった。栄養や日照条件で草体の大きさは変化するので、果実の形状確認が確実な同定だと思う。 (P)ヒメビシの浮葉 神奈川県立フラワーセンター大船植物園
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Chapter5 ヒシの分類小考察 |
以上がトウビシを除く(*7)日本産ヒシ科植物の概要であるが、すでに述べているようにメビシはおそらくオニビシそのもの、拡大解釈したとしても微小な種内変異だろう。イボビシはヒシに至る進化前の残存であって独立した種である可能性が高いように思われる。また2n=96という染色体を考えればヒシとコオニビシは交雑種起源である可能性が高いだろう。こうして整理してみると、日本産ヒシ科植物は元々の母種が最大種のオニビシと最小種のヒメビシの2種類だった、と言えなくもないと思う。 小さな本のわりには示唆的な情報が多い「水辺の植物」(保育社 堀田満著)には三木茂博士(*8)のヒシの果実の進化樹形図が転載されているが、形状から見た「進化論」よりも、こうした母種を探すアプローチの方が的を射ているのかも知れない。時間軸を考慮した樹形図も、進化の突発事項とも言える「交雑」は表現しようもない。逆に交雑による形状変化は樹形図の中に埋もれてしまうだろう。 三木茂博士の頃には影も形もなかったゲノム解析の技術により、今後より明らかなヒシの進化過程が明らかにされるかも知れない。APGVではミソハギ科の一部(ヒシ属)となっているが、ミズマツバやキカシグサとどのように分化したのか興味深い。 さて、以上の状況を整理すると以下図の通りとなる。(時間軸は考慮しない)まずヒメビシとオニビシ(メビシ)が「種」として存在し、両者の交雑の結果母種がどちらかでイボビシとコオニビシに分かれた。両者とも稔性を持ち、イボビシは進化(棘の退化)によって一部がヒシとなった。ヒシは雑種優勢により他種に比べて分布が広範となり、最も普遍的な科名植物となるに至ったというのが自分なりの仮説である。 (P)ヒシの花 茨城県土浦市 ため池
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脚注 |
(*1) 出典は荻沼一男、高野温子、角野康郎「日本産ヒシ科数種の核形態」(1996)。本文にもあるが、当該論文に於いてもヒシが交雑種である、と断言はされておらず、あくまで「示唆されている」レベルである。 (*2) または雑種強勢、ヘテローシスheterosis。それぞれの親の強靭な部分(対環境、対病害虫など)を受け継いだ雑種は元の種より強く優勢となる現象。特に稔性を持たない雑種はこの傾向が強く、一代雑種優勢と言われることもある。 (*3) 種として固定された枠内での変異、と書いてしまうと簡単だが、個体変異、地理的変異(地域変種)、多型など多くの概念を含む用語となっている。メビシはオニビシの葉茎が赤くなる程度の変異だが、それ以外の形質はオニビシそのものであって、種としてはオニビシではないか、という話。 (*4) 多型には表現型多型と遺伝的多型があり、前者は複数の異なる表現型が同じ集団の中に存在する状態である。後者は同じ生物種の集団の中に遺伝子型の異なる個体が存在すること。 (*5) インバモには遺伝子的にガシャモクを母親とする型とササバモを母親とする型があり、葉の形態で差異が見られる。「北九州市お糸池における自然雑種インバモの起源と現状」(2008 天野他)実際に自分で栽培していたインバモにも図鑑そのままのインバモとササバモに近い葉を持つ株が見られた。 (*6) 自生の水生植物の草分け的サイトでもある日本の水草ヒシの解説には「オニビシの小型がヒメビシでコオニビシともいいます。」とある。自分のWebサイトにも間違いが多々あると思うので他のサイトを云々するつもりは一切ないが、有名で影響力があったサイトなので、この情報によってヒメビシの自生情報が語られている可能性もあったのではないだろうか。くどいようだが無駄足を怒っているわけではない。無駄足は私のフィールド活動の大部分を占めるので今更何とも思わない。 (*7) Trapa bicornis。中国原産の大型のヒシ。実も大型なので食用として福岡県や佐賀県などで栽培されている。また近年水辺植物として販売されることもあるようだ。外来種というか、現時点では農産物なので本稿では扱っていない。また自分自身も栽培経験も自然環境で見たこともない。 (*8) 1901-1974 植物学者。水草の研究においても先駆者である。1937年に「山城水草誌」を出版。 【参考文献】 1.日本水草図鑑 文一総合出版 角野康郎 P128〜131 ヒシ科 2.水辺の植物 保育社 堀田満 P23、P25、P143〜146 3.水草の観察と研究 ニューサイエンス社 大滝末男 P41〜44 ヒシのなかま 【参考論文】 1.荻沼一男、高野温子、角野康郎「日本産ヒシ科数種の核形態」(1996) |
Field Note ヌカボタデ問題 |
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